蠅 饅頭 の役割
新感覚派作家・横光利一(よこみつ りいち)のデビュー作です。教科書で読んだことがある人も多いのではないでしょうか?今回は、横光利一『蠅』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!Contents蠅の視点で描かれるところが特徴的な小説です。横光が、「人間が一番上の生き物だ」という考えに対抗し、人間の価値を下げる擬人法などを積極的に用いた新感覚派に属する作家だからです。戦後は、戦争協力を非難されて評価されませんでした。死後、徐々に横光の作品は分析が進み、再評価されるようになりました。新感覚派については、以下の記事をご覧ください。真夏の宿場には、馬車に乗るために乗客が集まって来ます。蠅は、馬の背中をよじ登っていました。しかし、いつまで経っても馬車は出ません。死にかけている息子のもとに一刻も早く駆け付けたい女性が、馭者(ぎょしゃ。馬を走らせる人)に泣きつきます。やっと馬車が走り出し、蠅も馬車の屋根に止まってついて行きました。そして、人間たちの悲惨な最期を目にするのです。馬車の屋根に乗り、人間たちを見つめる。この先、横光利一『蠅』の内容を冒頭から結末まで解説しています。次に、宿場に向かう娘と若者が登場します。娘は「知れたらどうしよう」となにやら不安そうにしています。彼らは何かに追われているようです。母親と母親に手を引かれた男の子が宿場に入って来ました。そして、未来に希望を抱いている田舎紳士(紳士のなりをしているが、どこか洗練されていない男性のこと)もやってきました。馬の背中に乗っていた蠅は、馬が走りだすと馬車の屋根に止まりました。馬車の中では、田舎紳士が自らの知見を披露して、全員を物知りに仕立て上げていました。農婦は「着くのは正午になりますか?」と問い続けています。そのうち、馬車が止まってしまいました。饅頭をたらふく食べた馭者が寝てしまったのです。横光利一の初期の作品では、少年が特権的に描かれることが多いです。今回も、母親に手を引かれた少年がそのように機能するかと思われました。馬車の狭い空間の中で、大人たちが田舎紳士の話に夢中になっている間、男の子だけが「その生々した眼で」外の世界を見ています。母親は、「お母ア、梨々」と外に注意を促そうとする男の子を「ああ、梨々」と軽く流します。そこで母親が馬車の異変に気づけば、人間は助かったかもしれません。『蠅』は、10のフラグメント(断片)から成り立っていると言われます。なぜ章ではなく断片と言うのかというと、これには、映画の影響を強く受けていることが関係しています。1899年頃に活動写真(ナレーションをつけた日本独自の無声映画)が日本にやってきて、『蠅』は1923年に出されました。新しい芸術としての映画は、人々を虜にしました。当時の映画は技術があまり発展していなかったこともあって、シーンとシーンの間は滑らかに繋がっておらず、パッパッと切り替わるぶつ切りの状態だったようです。そのため、当時の映画の手法を参考にした『蠅』も、 真夏の宿場は空虚であった。ただ①眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、②豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、③裸体にされた馬の背中まで這い上った。視点の移り変わりにも、映画の影響を見ることができます。①では、蠅が「眼が大きい」ことを確認するには相当蠅に近寄らなくてはならないので、②では蠅が「豆のように」見えているので、このズーム・ズームアウトの描き方は、これまでの小説にはありませんでした。映画の技術を小説に取り入れたこの斬新な手法は、後の小説にも大きな影響を与え、今では当たり前に使われるものになっています。蠅は、小説の中で「眼の大きな」としきりに形容されていました。私はそれが気になったので、そこに注意しながら読み進めました。そして、これは馬車という小さい箱の中で、人間たちは田舎紳士によって膨大な知識を得ました。その間に、蠅は梨畑を眺め、断崖を仰ぎ、激流を見下し、馬車がきしむ音を聞きました。そして馬(人間と同じ哺乳類)は、暴れないように目隠しをされていて、物理的に視界を狭められています。 私はここに、蠅と人間の視野の比較を読み取りました。人間は、知識だけを蓄えて頭でっかちになり、外に目を向けなかったせいで墜落しました。一方で、馬車を離れて外の世界を見た蠅は、馬車の異変に気付きます。そして馬車が墜落するのを見送った後、「悠々と青空の中」へ飛んでいきました。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。引用した部分は、馬車が落ちていくところです。人が無残な死に方をしているというのに、非常に簡潔に書かれています。人間と蠅の立場を逆にして考えた時、このシーンに疑問を持たずに読めました。私は、害虫が死んでもなんとも思いません。蚊が飛んでいれば殺すし、蠅がいれば潰します。可哀想などとは思わずに、当然のことのようにしている動作かもしれません。それは、蠅にとっても同じことなのです。 私はこの部分を読んで「未来ある人たちと馬が死んだ」と思いましたが、蠅は「8つの哺乳類が死んだ」くらいに思っているのかもしれません。「人間が虫の命をちっぽけだと思っているように、虫もまた人間の命をちっぽけだと思っている。つまり、見る人から見れば人間は絶対ではない」という風に、以上より、私は『蠅』の主題は「思い上がった人間への制裁」だと考えました。以下のリンクから、『蠅』の論文を検索することができます。今回は、横光利一『蠅』のあらすじと内容解説、感想をご紹介しました。『蠅』は、一筆書きの人物しか描かれないので、ここにエンターテインメントのような面白さを見出すのは難しいです。しかし、「人間が絶対じゃない」という新感覚派の雰囲気を感じたり、映画の観点から見てみると、さまざまな読み方ができる小説だと思います。↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。 物語の中での蠅の役割を考えさせる問題なんか教科書には最適だと思います。 [No.10] 2006年07月05日(水) 9:45:47 218.123.20.156 [unknown] 親御さんとお子様が共に育つ根源です子育てママが望む思考力が手に入る-お母さんの為の子育て読書会での事例-book post 全人格を豊かに皆さまと共に育ちたい。深刻なお悩みを抱えられる子育てママの為の公の所では目の行き届かない1人1人のお子 蝿 新感覚派の旗手である横光利一 新感覚派とは「言語表現の独立性を強調」「近代という状況・感覚・意識を基調として主観的に把握」「知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風」さらに擬人法を用いることで表現に新鮮さが出る。

馭者は潔癖症なので、誰も手を付けていない蒸したての饅頭に、最初に手を付けることを最高の喜びとしていたのです。 ようやく蒸しあがった饅頭を手に入れた馭者は、ついに馬車を走らせました。 人間の落ち度. 蠅 著者:横光 利一 読み手:池田 佐季 時間:17分36秒 一 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。 ³ã­ã¤ã¤æš«ãã¶ã‚‰ã¶ã‚‰ã¨æºã‚Œã¦ã„た。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。 馬は一条の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背の老いた馭者の姿を捜している。Copyright© ä¸€èˆ¬ç¤¾å›£æ³•äºº 青空朗読.
信濃国柏原で中農の子として生まれた。 また、人間と蠅の非関連性がとても面白いです。物語の中での蠅の役割を考えさせる問題なんか教科書には最適だと思います。 [No.10] 2006年07月05日(水) 9:45:47 218.123.20.156 [unknown