蠅 小説 解説
埼スタで行われる代表戦の参加率高し。少し変わった作品の発掘を得意とする。本業は設計関連。次の記事 埼玉県で生まれ育った1981年生まれが、日々の気になることをあれこれ書いてるブログ「フォレストラバー」です。暇つぶしにどうぞ。 Web好き達の遊び場 © 2020 Forest Lover All rights reserved.

1377 view. 横光利一さんの『蠅』です。感想を書くのがちょっと難しく感じた小説が横光利一さんの『蠅』でした。横光利一さんの『蠅』は「死」について書かれた短編小説。読後、『デスノート』を思い浮かべました。『文豪とアルケミスト』雑談も! 2. 冒頭の一文が非常に有名な短編です。その一文がきっかけで、横光利一の属する同人(自費で雑誌を出版するグループ)は新感覚派と呼ばれるようになりました。今回は、横光利一『頭ならびに腹』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!Contents冒頭の「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」という擬人法が使われた文章が、画期的だと評されました。ショートショート(短い短編小説)よりも短い作品ですが、奥が深い小説です。戦後は、戦争協力を非難されて評価されませんでした。死後、徐々に横光の作品は分析が進み、再評価されるようになりました。新感覚派については、以下の記事をご覧ください。ある日の真昼、特別急行列車に乗っている1人の子僧は、大声で歌を歌っていました。そんなとき、列車は突然止まってしまいます。運転再開のめどが立たず、乗客たちは困り果てました。そして、車掌が「前の駅まで引き返す列車が来る」という報告をしに来ました。乗客たちは、周囲を見て他の乗客の動きに目を向けます。列車に乗っている少年。ずっと歌を歌っている。この先、横光利一『頭ならびに腹』の内容を冒頭から結末まで解説しています。乗客はいったん外に出て、この土地の宿に泊まるか、運転再開を待つか、出発した駅に戻るかという選択を強いられます。子僧は、このような状況でも歌い続けます。そして、群衆の中から1人の太った紳士が出てきます。「押すな!押すな!」と、群衆は我先にとS駅に戻る列車に乗り込みます。そして、S駅に戻る列車が出発した後、「皆さん、H、K間の故障は直りました」と車掌が言いに来ます。しかし、車内には子僧しか残っていませんでした。列車は、目的地に向かってまた走り出します。子僧は、目をキョロキョロさせながら歌いました。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。今読んでみるとなんともない文章ですが、当時これは画期的な文章でした。なぜでしょう?人間の用いた暴走する科学に疑問を持った新感覚派の作家たちは、人間を疑いました。また、これは現実を重視する自然主義への反発でもあります。 自然主義の作家たちなら、冒頭の文を「急行列車は、時速○○キロで通り過ぎた」と書くでしょう。自然主義作家は、現実に忠実だからです。一方で、横光は擬人法や比喩を使いました。列車には足がないので駆けることはできませんし、駅はいくら小さくても石ほどではありません。横光の初期の作品では、少年が特権的に描かれることが多いです。『蠅』という作品でも、馬車の狭い空間で話し込んでいる大人をよそに、少年だけが外の景色を見ています(外の世界に目を向けているということ)。『頭ならびに腹』でも、同じことが言えます。子僧は、太った紳士の声に惑わされず、自分で列車に残ると判断した結果、誰よりも先に目的地に向かうことができたからです。少年の歌の内容も謎が多いので、今後検討する必要があると思います。「頭」は群衆を、「腹」は太った紳士を表していると思います。面白いのは、この小説には固有名詞が1つも出てこないことです(『蠅』などもそうです)。固有名詞を使わないで、「車掌」「子僧」のように人物を記号で表現しているところに、ヒューマニズムへの反発が表れていると感じました。影響力のありそうな紳士の一言によって、群衆が折り返しの電車に殺到するシーンは、本当に滑稽です。何も考えていない群衆を揶揄しているようです。でも、日常にはこういう場面はたくさんあると思います。日本人は特に同調意識が強く、「誰かがやるからやる」みたいな意識があることは否定できません。今回は、横光利一『頭ならびに腹』のあらすじと内容解説、感想をご紹介しました。乗客が電車を乗り換えるという、何の変哲のもないストーリーですが、そこには新しい文体への挑戦や、人間の心理が隠れています。ぜひ読んでみて下さい!↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。 3. 蠅は、小説の中で「眼の大きな」としきりに形容されていました。私はそれが気になったので、そこに注意しながら読み進めました。そして、これは 蠅の視野の広さを表しているのではないかという結論にたどり着きました。 馬車と … 新感覚派とは?特徴・代表作家・作品を含めてわかりやすく解説. 新感覚派作家・横光利一(よこみつ りいち)のデビュー作です。教科書で読んだことがある人も多いのではないでしょうか?今回は、横光利一『蠅』のあらすじと内容解説、感想をご紹介します!Contents蠅の視点で描かれるところが特徴的な小説です。横光が、「人間が一番上の生き物だ」という考えに対抗し、人間の価値を下げる擬人法などを積極的に用いた新感覚派に属する作家だからです。戦後は、戦争協力を非難されて評価されませんでした。死後、徐々に横光の作品は分析が進み、再評価されるようになりました。新感覚派については、以下の記事をご覧ください。真夏の宿場には、馬車に乗るために乗客が集まって来ます。蠅は、馬の背中をよじ登っていました。しかし、いつまで経っても馬車は出ません。死にかけている息子のもとに一刻も早く駆け付けたい女性が、馭者(ぎょしゃ。馬を走らせる人)に泣きつきます。やっと馬車が走り出し、蠅も馬車の屋根に止まってついて行きました。そして、人間たちの悲惨な最期を目にするのです。馬車の屋根に乗り、人間たちを見つめる。この先、横光利一『蠅』の内容を冒頭から結末まで解説しています。次に、宿場に向かう娘と若者が登場します。娘は「知れたらどうしよう」となにやら不安そうにしています。彼らは何かに追われているようです。母親と母親に手を引かれた男の子が宿場に入って来ました。そして、未来に希望を抱いている田舎紳士(紳士のなりをしているが、どこか洗練されていない男性のこと)もやってきました。馬の背中に乗っていた蠅は、馬が走りだすと馬車の屋根に止まりました。馬車の中では、田舎紳士が自らの知見を披露して、全員を物知りに仕立て上げていました。農婦は「着くのは正午になりますか?」と問い続けています。そのうち、馬車が止まってしまいました。饅頭をたらふく食べた馭者が寝てしまったのです。横光利一の初期の作品では、少年が特権的に描かれることが多いです。今回も、母親に手を引かれた少年がそのように機能するかと思われました。馬車の狭い空間の中で、大人たちが田舎紳士の話に夢中になっている間、男の子だけが「その生々した眼で」外の世界を見ています。母親は、「お母ア、梨々」と外に注意を促そうとする男の子を「ああ、梨々」と軽く流します。そこで母親が馬車の異変に気づけば、人間は助かったかもしれません。『蠅』は、10のフラグメント(断片)から成り立っていると言われます。なぜ章ではなく断片と言うのかというと、これには、映画の影響を強く受けていることが関係しています。1899年頃に活動写真(ナレーションをつけた日本独自の無声映画)が日本にやってきて、『蠅』は1923年に出されました。新しい芸術としての映画は、人々を虜にしました。当時の映画は技術があまり発展していなかったこともあって、シーンとシーンの間は滑らかに繋がっておらず、パッパッと切り替わるぶつ切りの状態だったようです。そのため、当時の映画の手法を参考にした『蠅』も、 真夏の宿場は空虚であった。ただ①眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、②豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、③裸体にされた馬の背中まで這い上った。視点の移り変わりにも、映画の影響を見ることができます。①では、蠅が「眼が大きい」ことを確認するには相当蠅に近寄らなくてはならないので、②では蠅が「豆のように」見えているので、このズーム・ズームアウトの描き方は、これまでの小説にはありませんでした。映画の技術を小説に取り入れたこの斬新な手法は、後の小説にも大きな影響を与え、今では当たり前に使われるものになっています。蠅は、小説の中で「眼の大きな」としきりに形容されていました。私はそれが気になったので、そこに注意しながら読み進めました。そして、これは馬車という小さい箱の中で、人間たちは田舎紳士によって膨大な知識を得ました。その間に、蠅は梨畑を眺め、断崖を仰ぎ、激流を見下し、馬車がきしむ音を聞きました。そして馬(人間と同じ哺乳類)は、暴れないように目隠しをされていて、物理的に視界を狭められています。 私はここに、蠅と人間の視野の比較を読み取りました。人間は、知識だけを蓄えて頭でっかちになり、外に目を向けなかったせいで墜落しました。一方で、馬車を離れて外の世界を見た蠅は、馬車の異変に気付きます。そして馬車が墜落するのを見送った後、「悠々と青空の中」へ飛んでいきました。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。引用した部分は、馬車が落ちていくところです。人が無残な死に方をしているというのに、非常に簡潔に書かれています。人間と蠅の立場を逆にして考えた時、このシーンに疑問を持たずに読めました。私は、害虫が死んでもなんとも思いません。蚊が飛んでいれば殺すし、蠅がいれば潰します。可哀想などとは思わずに、当然のことのようにしている動作かもしれません。それは、蠅にとっても同じことなのです。 私はこの部分を読んで「未来ある人たちと馬が死んだ」と思いましたが、蠅は「8つの哺乳類が死んだ」くらいに思っているのかもしれません。「人間が虫の命をちっぽけだと思っているように、虫もまた人間の命をちっぽけだと思っている。つまり、見る人から見れば人間は絶対ではない」という風に、以上より、私は『蠅』の主題は「思い上がった人間への制裁」だと考えました。以下のリンクから、『蠅』の論文を検索することができます。今回は、横光利一『蠅』のあらすじと内容解説、感想をご紹介しました。『蠅』は、一筆書きの人物しか描かれないので、ここにエンターテインメントのような面白さを見出すのは難しいです。しかし、「人間が絶対じゃない」という新感覚派の雰囲気を感じたり、映画の観点から見てみると、さまざまな読み方ができる小説だと思います。↑Kindle版は無料¥0で読むことができます。