電気 自動車 たま NHK

「歴史秘話ヒストリア」は 総合テレビ g > 毎週水曜 夜10:30から ! これからのラインナップ 7月は・・・ 植木等 スーダラ節/ペスト パンデミック/古代モノ語り/江戸 災厄と戦った人々/夫婦の絆 溥傑と浩・幸之助とむめの その同じ年に完成、販売が開始されたのが、この可愛らしい2ドア小型乗用車「たま号」。モデルコードはE4S-47-1型。「たま」という名称は、会社の所在地にちなんで命名されました。 フレームは木製であり、車両重量は1,050kg。そして最高出力はトラックと同じ4.5馬力ですから、最高速度は35km/hだったそうです。可愛らしいですね! これは鉛バッテリーを使用する電気自動車にとっては致命的だった。これ以上車の価格を上げれば最早売れない。外山は電気自動車撤退の苦渋の決断をする。 こうして一時代を築いた電気自動車は日本から消えた。たまは5年で1099台を生産していた。 今、自動車業界を賑わせているのは電気自動車。しかし今から70年前、戦後間もなくの日本で電気自動車の開発に挑んだ男たちがいた。敗戦によって空を奪われた航空技術者たち。まさにどん底の中からの挑戦だった。これはそんな男たちの執念のドラマである。 1945年、敗戦後の日本。存続の危機に陥っていた企業があった。立川飛行機。軍用機の開発などを行っていた会社である。しかし戦後、GHQの命令で飛行機の開発は禁止され、4万人いた従業員も大幅に減少し、今は細々とアメリカ軍の依頼の仕事を行っている状態だった。 会社の存続のために何の事業を行うべきか。誰もが考えあぐねる中、一人の男が口を切った 1945年の暮れ、工場の片隅で自動車作りが始まった。外山は最も信頼する 二人は自動車について猛勉強を重ねた。あらゆる資料を読み漁って計算を重ねた。それでも分からない時は町に出て実際の車を観察した。アメリカ軍の車の下に潜り込んでスケッチをしていて、アメリカ兵に見つかって取り調べされたこともあった。とにかく必死だった。 しかし1年後、思いもかけない事態が起こる。アメリカが立川飛行機の工場明け渡しを要求してきたのだった。だが外山は自動車の開発を諦める気はなかった。外山の脳裏を過ぎったのは過去の屈辱的な出来事だった。 キ77、戦時中外山達が開発し、無着陸飛行の世界記録を出した高性能機。外山たちの誇りの詰まった機体だった。しかし進駐してきたアメリカに機体の引き渡しを要求され、キ77にはアメリカ軍のマークが書かれアメリカに輸送された。外山は屈辱に震えた。二度とそのような思いはしないと決意していた。 1946年12月、外山は立川飛行機から独立、200人の部下達が彼に従った。東京府中の古い工場を借りた外山は、ここに東京電気自動車株式会社を設立した。しかし工場は雨漏りが激しく、雨が降ると屋内でも傘をささないと仕事が出来ない状態。また工場には機械もろくになく何でも手作りの状態だった。しかし熱い男たちは逆境をものともせずに開発を続けた。 開発を初めて1年7ヶ月、田中の設計図がようやく完成した。トラックタイプと乗用車タイプの2タイプ。この自動車には多摩で作った車という意味で「たま」と名付けられた。航空機開発の経験を随所に生かした画期的な自動車であった。 1947年5月、ようやく2つのたまが完成した。デモンストレーションとして工場のある府中から都心までパレード、日比谷公園での展示販売会では5台が即売れる上々の反響であった。 手応えを感じていた外山たちに思わぬ出来事が発生する。国が主催する電気自動車性能試験に参加することになったのだ。これは一回の充電での走行距離や速度を競う試験である。これで認められれば鉄板やゴムなどを優先的に配給されるが、大手メーカーも多数参加する中、 田中には試験のための戦術があった。まずはバッテリー。バッテリーは新品よりも何度か充電した方が電気容量が大きくなることが分かっていた。そこで何回の充電で容量が最も大きくなるかを実験し、試験用の電池はその回数使用したものを用いることにした。またモーターの回転をタイヤに伝えるリファレンシャルギアの抵抗を減らすため、試験前に予備のバッテリーで事前にタイヤを回しておいてギアの抵抗を減らす策を取った。さらには電気消費量が増加する発車時は全員で車を手で押した。こうして万全の策を取って試験本番に臨んだ。そして試験本番。電気自動車の平均が距離50キロ、平均速度20キロの中、たまは距離96キロ、時速28キロの驚異的なスコアを叩きだした。 たまは飛ぶように売れた。特に売れたのがタクシー用だった。当時のタクシーは木炭タクシーで出発に準備がかかったため、タクシーは呼んでもすぐには来ないというのが常識だった。呼んだらすぐに来る電気タクシーの登場で、赤坂の客が終電時刻を気にしなくなり、赤坂の料亭の営業時間が1時間伸びたという。 しかし電気自動車の人気の裏で、東京電気自動車の経営は困難に直面していた。性能優先の開発体質のため、どうしてもコスト高となって経営は赤字が続いていた。倒産の危機だった。 外山はブリジストンの創業者である石橋正二郎に資金援助を依頼する。しかしこんな小さな会社に対して援助を引き受けてくれるかどうか。外山は一計を講じることにした。石橋に実際にたまに乗車してもらったのだ。石橋の自宅近くの急坂・鳥居坂をたまはものともせずにグングン登った。その性能に感心した石橋は資金援助を約束した。 これで一息ついた東京自動車だったが、また思わぬ方向から困難が襲いかかってきた。朝鮮戦争の勃発で砲弾の原料にするためにアメリカが鉛を買い占めたのだ。鉛の価格はかつての8倍にまで高騰した。これは鉛バッテリーを使用する電気自動車にとっては致命的だった。これ以上車の価格を上げれば最早売れない。外山は電気自動車撤退の苦渋の決断をする。 こうして一時代を築いた電気自動車は日本から消えた。たまは5年で1099台を生産していた。 この後、日本はガソリン自動車の時代を迎え、外山たちもガソリン自動車の開発を行った。ゼロ戦のエンジンを開発した中島飛行機を前身とする富士精密工業と協力して開発したプリンスには皇太子(現在の上皇)も乗車、富士精密工業と合併してプリンス自動車となった後には名車スカイラインを産み出した。そして日本グランプリでポルシェと渡り合って日本人を熱狂させたR380を開発。それらの開発に活躍したのは田中次郎だった。その後、プリンス自動車は日産自動車と合併、かつての男たちの熱い想いは今の若者たちに引き継がれているのである。  元航空技術者の技術開発物語という・プロジェクトXと言えば、かつて「団塊世代の応援歌」とも言われた番組です。私は団塊世代よりは下の世代ですが、昭和世代に属する人間ですので、今でもあの番組を思い返しますと熱い想いが湧き上がるとと共に、涙腺が緩みます(笑)。  自称「教養番組評論家」。公称はかつてガッテン出演時に「ただの会社員」と言ったのが、なぜか本番では「謎の会社員」にされてしまってそれが定着。「あるある大事典事件」に先んじて、健康番組問題に関する書籍を一冊執筆。引用をストックしました引用するにはまずログインしてください引用をストックできませんでした。再度お試しください限定公開記事のため引用できません。 「第二次世界大戦直後に日本でEVが作られていた!」と聞いて信じられますか?国産自動車史にご興味のある方には当たり前でしょうが、知らない方も少なくないと思われます。そこで今回は、ちょうど日産のアメリカ現地法人が面白いリリースを流してくれましたので、「タマ号」をご紹介してみます。 トヨタがハイブリッド車で圧倒的優位を築いてしまったため、各社は後追い的にハイブリッドを生産をしているわけですが……日産は一貫してEVのグローバルリーダーを目指して、乗用車「リーフ」と商用車「e-NV200」の開発・製造販売を続けています。そんな日産の前身(の一部)が製造していたのが、今回ご紹介する「タマ号」です。 コチラが、その「タマ号」。成り立ちが複雑な日産ですが、この「タマ号」を製造したのは、立川飛行機(後のプリンス自動車)の元エンジニア達です。第二次世界大戦直後のガソリン不足を背景に、電気自動車製造にチャレンジしたわけです。 約200名のエンジニアが新設された東京電気自動車に移動(転職)して、研究・製造販売に乗り出したのです。開発は2シーター・トラックが先行。そして1947年、積載重量500kg、4.5馬力モーターを搭載したプロトタイプ2台を完成させました。その同じ年に完成、販売が開始されたのが、この可愛らしい2ドア小型乗用車「たま号」。モデルコードはE4S-47-1型。「たま」という名称は、会社の所在地にちなんで命名されました。フレームは木製であり、車両重量は1,050kg。そして最高出力はトラックと同じ4.5馬力ですから、最高速度は35km/hだったそうです。可愛らしいですね!しかし航続距離は意外にも65kmと、なかなかに優秀でした。 ベージュを基調にした内装は質素そのもの!2ドアですが、ご覧の通り後部座席もあり、乗車定員は4名でした。 「たま号」の面白いところは、このバッテリー配置にあります。現代のEVのようなリチウムイオンであるワケもなく、当然のことながら鉛蓄電池が採用されていたのですが、それをフロア下左右に配置。ローラー付きの台に載せることで、バッテリーを素早く交換できるようにしていたのでした。 ボンネットは、当時存在していなかったアリゲータータイプ。メンテナンス性を考慮した結果だそうです。機械プレスでは上手く作れないため、手で叩き出して良い部分を繋ぎ合わせて製造していたそうです。またヘッドライトをビルトイン方式にすることで、小洒落た雰囲気を醸し出すことに成功しています。 航空機エンジニアらしい工夫も見られる可愛らしい「たま号」ですが、ガソリン供給が安定すると共に役目を終え、ひっそりと姿を消したそうです。最後に、本車両の詳細を説明してくれる動画を載せておきますので、ご興味のある方はどうぞ! 神奈川県横浜市西区高島一丁目1番1号オートバイ系雑誌・書籍編集をする傍ら、自転車輸入販売業として起業。得意ジャンルは自転車(子ども車・子ども乗せ・クロスバイク)・オートバイ・自動車・アウトドア。この記事が気に入ったら最新のバイクニュース人気ランキング関連キーワードバイクメーカー一覧カテゴリーニュース、カスタムからファッションまで、バイクをサクッと楽しむショートニュースメディアforRide(フォーライド)