奈良県 小学校 廃校

学校から帰らずにずっと遊んでいたい…子どもの頃にそう思ったことはありませんか?子供心に返って思いっきり遊んだり、夜の学校を探検したり、お風呂に入ることもできる学校での宿泊が話題になっています。廃校になった学校の校舎をリノベーションして生まれ変わった泊まれる学校。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・©2020 Weblio 奈良市立奈良高等学校(同上) 3. 前回に引き続き、奈良県十津川村の廃校休校巡りです。 前回は北部を主に訪問しました。↓ 奈良県十津川村北部の廃校休校巡り(2017/09/24) 奈良県立富雄高等学校(2007年生駒市の北大和高校と統合し奈良県立奈良北高等学校へ) 7. 廃校後は、幼稚園として使用されていた形跡がありました。 広場には、錆びたブランコや滑り台が所狭しと並んでいました。 三県境. 最終更新 2019年1月25日 (金) 11:38 (日時は個人設定で未設定ならばutc)。; テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。 追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。; プライバシー・ポリシー 最終更新 2019年1月25日 (金) 11:38 (日時は個人設定で未設定ならばutc)。; テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。 追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。; プライバシー・ポリシー 三重県、奈良県、和歌山県の県境にあたる場所です。 瀞八丁の景勝が目前に迫り、風光明媚な場所ですが、

面積は奈良県の約1/5を占め、日本一広い村ですが、96%は山林です。人口は3,674人です。 (2014年10月1日現在)十津川は、奈良からも京都からも遠くはなれ、陸の孤島と言われるほど山深い、その名は見られます。十津川郷士は武士団として歴史も古く、古来より数々の国事にかかわってきました。尽くすという気慨は常に失われず、誇り高い十津川郷士の心は現在も脈々と受け継がれています。風屋大橋と風屋ダム大阪から十津川村へは国道168号を南下するルートが一般的です。十津川村は、2011年5月にも訪問しており記事に掲載していますが、久しぶりの訪問となりました。風屋ダム湖は電源開発を目的として造られた重力式ダムです。当日の風屋ダムは水門が閉じられ川の水量も減っていました。川の色は乳白色を含んだグリーンで神秘的な雰囲気でした。2度目の訪問ですが、前回と特に変わった様子はありませんでした。ベランダ付の重厚な鉄筋校舎と銀杏や楠の大木が、静かに佇んでいます。正面玄関や離れのコンクリートブロックには、往時のスローガンがそのまま残っていました。1991年度の在校生徒は28名でした。風屋に隣接する山崎集落にあります。国道168号を山崎トンネルの手前の脇道に入っていくと高台の広場に平屋建ての木造校舎があります。水色に塗られた奥の建物は、サッシに変えられ改装されています。L字型に連結された手前の古い建物は、講堂だったようです。草葉に埋もれそうな学校跡記念碑は、明治5年創立、昭和39年二村小学校へ統合により廃校とありました。創立から何度か建替えられたものと思われますが、歴史のある学校だったのですね。国道168号を南下し、十津川村役場を通過し国道425号に入ります。紀伊山地を横断する国道425号は、道幅も狭く見通しの悪い酷道として有名です。市街地より一足早く色づき始めていました。下葛川集落国道425号から分かれて、瀞峡方面へと下りて行く途中にいくつか廃校が残っています。平地が無く山の斜面に民家が雛壇のように並んでいます。斜面に連なる下葛川集落の中に、校庭と校舎があります。その一段上に講堂と給食室が渡り廊下で繋がっていました。2011年にも訪問しましたが、当時は少年達が校庭で草野球をして遊んでいました。下見板張りの2階建木造校舎の外観は変わっていませんが、人影も無く寂しい佇まいでした。骨組みだけの錆びたバスケットボールスタンドが、骸骨のように立っていました。1991年度の在校生徒は8名でした。下葛川集落を経て南下する途中、「大渡」バス停から右の小道に入ります。一軒家の裏の枯れ木と落ち葉に埋もれた道を奥に進むと石垣の上に古い校舎が見えました。石段の傍に学校跡記念碑が立っています。明治5年創立、昭和42年、葛川小学校に統合に伴い廃校とありますが、さきほどの山崎小学校と同様に歴史があり、同様の運命を辿っています。山林の中に埋もれんばかりに残っており、昼間でも薄暗く湿気の多そうな場所です。廃校後は、幼稚園として使用されていた形跡がありました。広場には、錆びたブランコや滑り台が所狭しと並んでいました。三県境三重県、奈良県、和歌山県の県境にあたる場所です。瀞八丁の景勝が目前に迫り、風光明媚な場所ですが、当日は人影もなく閑散としていました。ウォータージェット船が水しぶきを上げて峡谷を駆け抜けていきました。瀞八丁の崖の上にある、築100年以上の元旅館です。大正6年「あづまや」として開業し、当初は山で切り出した材木で筏を組んで運ぶ「筏師(いかだし)」のための宿でした。しかし、戦後多くの宿屋は取り壊され、今では「瀞ホテル」だけが、当時の筏宿の歴史をしっかりととどめているます。旧道を玉置神社方面に分かれ、田戸隊道(トンネル)を潜り坂道を上っていくと山の中腹に点在する家屋が見えます。山の斜面の段々畑や近くにみる青空から、南信州の下栗集落を思い出しました。集落の広場(空地)の奥に平屋の木造校舎が見えます。まず、目に入るのが、大きなコンクリートの門柱です。門柱の表札から、かつて中学校の分校も同敷地にあったことが判ります。入口から見た校舎の表側は改装されていますが、裏に回ると窓の様式は往時の学校のまま残っていました。現在は、民間所有されており、農機具の倉庫として利用されていました。紅葉真近い北山川の峡谷国道311号から小川口を木津呂集落に向う途中、面白い光景を目にしました。蛇行する北山川に、中洲にこんもりと孤島ができてこのような景色が現れます。UFOのように見えるそうです。(木津呂HPより)当日は時間の都合で登れませんでした。。テレビで放映されてから、脚光を浴び数十人単位で訪れるようになったそうです。もちろん、目当ては巨大なUFOです。木津呂は、三重県紀和町にある小さな山間集落です。交通も不便で過疎化が進行しています。平屋の木造校舎ですが、ガラス越しに中を覗いてみると教室や廊下は綺麗に手入れされていました。コミュニティの場として現在も使用されているようです。その入口で見かけたものです。言い得て妙ですね。一度訪れたいスポットがあり、立ち寄りました。七色地区を経て、真紅の柳本橋の手前を左折して細い道を登って行きます。この一枚を撮るために立ち寄ったのです。有名なスポットです。世界遺産 熊野古道(小辺路)周囲は果無山脈が連なる山岳地帯です。地名の由来は、果てし無い山々から来ているのでしょうね。。都会よりずっと空が真近に見えます。「天空の郷」と呼ばれる所以です。吸い込まれるように尾根伝いの小道を進みます。民家の庭先に古道が通っています。壁に掛けられた笠や草鞋も心憎い演出です。山の湧き水でしょうか。。本宮へ向う途中に、往時の先達も喉を潤したことでしょう。秋の風物詩ですね。熊野古道の道標向って奥を指す方角には、整備された道はありません。急斜面に畦道のような険しい道しか見えませんでした。見えます。幾多の足で踏み固められた石畳の道と年季の入った石垣が続きます。きっと桃源郷に相応しい光景が見られることでしょう。 æ‚ªŒ©‚‚©‚é‚©‚àIHyLINE—F‚¾‚¿’ljÁ•û–@zLINE—F‚¾‚¿”–ñ90–œlˆÈãICopyright ©2001 - 2020

奈良県立奈良工業高等学校(2008年奈良商業高校と統合し奈良朱雀高校へ) 6. 少子化などによる就学人口の減少で、本来の使命を終える学校が増えてきています。その数全国で約6,800校。しかしその一方で、多くの廃校は第二の歴史を刻み始めています。 奈良県高等学校の廃校一覧(ならけんこうとうがっこうのはいこういちらん)は、奈良県の廃校となった高等学校の一覧。対象となるのは学制改革(1948年)以降に廃校となった高等学校と分校である。名称は廃校当時のもの。廃校時に属していた自治体が合併により消滅している場合は現行の自治体に含める。また、現在休校中の学校は公式には存続していることとなっているが、休校中の学校は事実上廃校となっている場合が多いため、便宜上本項に記載する。 奈良県立奈良商工高等学校(1948年奈良県立奈良高等学校へ統合) 2. 前回に引き続き、奈良県十津川村の廃校休校巡りです。前回は北部を主に訪問しました。↓奈良県十津川村北部の廃校休校巡り(2017/09/24)今回は、南部(十津川役場以南)を主に廻りました。十津川村は2011年、2014年にも訪問したり、和歌山県南部・三重県南部へ向かう途中で立ち寄ったりしています。過去に掲載した学校も含まれていますが、ご了解ください。 十津川村役場から国道168号を南下、折立(おりたち)地区の沿道の左手に木造校舎が見えます。耐震補強してありますが、いつ見ても郷愁漂う美しい木造校舎です。 道路の反対側(右側)に体育館があります。先ほどの校地から木製の歩道橋を渡って行けるようになっています。 体育館側から見た校舎 かつて沿道に立っていた小学校の看板は廃材置き場に無造作に置かれていました。 平谷小学校(2012年当地に移転、2017年4月統合により閉校)かつては、折立中学校の校舎でしたが、閉校後の2012年(平成24年)9月に当地に移転してきました。その間、移転元の旧平谷小学校の校地では、3校(平谷・西川第一・西川第二小学校)統合に向けて「十津川第二小学校」の建設計画が進められ、完成と同時に平谷小学校は閉校となりました。新校舎の工事期間中に旧折立中学校の校舎を補強改修して使用していたということですね。閉校(統合)時の全校児童は34名でした。残った木造校舎が今後どのように利用されるのか気になります。。耐震補強されたのだから、取り壊しになることはないと思いますが。。 十津川温泉手前の二津野ダム湖畔に完成した新校舎が、十津川第二小学校です。旧平谷小学校の校地でもあった場所です。 ちょうど秋季大運動会の最中で児童らのほか、多くの村人達が参加し賑わっていました。表札を見ると保育所も併設されているようです。 正門の塀には、統合となった3校の校歌や校章と校舎の水彩画が一枚のプレートに凝縮されています。これは平谷小学校のプレートですが、校舎が二つあるのは、平谷地区にあった旧校舎(耐震問題で解体済)と折立地区の前校舎(さきほど見た木造校舎)です。綺麗に描かれていますね。。 西川第一小学校のプレートこちの校舎も二つ描かれていますが、左側が旧校舎、右側が移転後の新校舎です。 西川第ニ小学校のプレート県道735号沿いの山奥にある校舎です。十津川第二小学校(現役)2017年4月1日に十津川村立西川第一小学校・十津川村立西川第二小学校・十津川村立平谷小学校の統合により開校しました。教室棟は十津川村産の杉、ヒノキを存分に使った近代的な木造2階建校舎です。体育館1階も木造となっています。十津川村南部の3校の児童(52名)は心機一転、この学び舎で再スタートすることとなりました。 引き続き国道168号を南下、世界遺産で有名な熊野古道(小辺路)のルートになっている桑畑地区に入ります。桑畑小井バス停付近でバイクを停めます。群生したヒガンバナを見ながらコンクリートの階段を下りて行くとダム湖のほとりに赤い屋根の建物が見えます。 思ったよりも急勾配な場所です。本当に狭い敷地に校舎らしき建物が建っています。 小学校跡記念碑石垣の傍に小さな石碑が窮屈そうに立っています。この場所が学校跡であった確証を得ました。 校舎の周りは草むらに覆われて近付くことができませんでした。手前のトタン屋根に続く小屋はトイレ棟です。 廊下には段ボールや本棚など備品類が放置されていました。 意外と奥行のある教室徒歩でしか辿り着けないような場所ですが、自転車が2台廃棄されていました。 卓球台の隅に置かれた古い映写機 反対側から撮った廊下 年季の入ったオルガン往時に使用していたものでしょう。 黒電話よりずっと前の時代の手回し式電話機交換手を呼び出して掛けていたものですが、これも往時に使用していたのでしょうか。。 無造作に放置された往時の机や椅子の他に畳が数枚掛かっていますが、閉校後の一時期は集会所として利用されていたのかもしれませんね。。 桑畑小学校(1964年閉校)バス停のある国道168号は過去に何度も通っていますが、ダム湖のほとりにあり、沿道からは隠れて見えないことや車両で行けないこと、一見民家に見えてしまうことから気づきにくい場所にある校舎です。半世紀も前に閉校となった校舎が現存していることは驚きですが、改修もされずに朽ち果てる運命かと思うと寂しい気持ちになりますね。。 国道168号を引き返し、国道425号を経由し県道735号に入ります。沿道の看板は地名ではありません。 「野猿」とは、両岸から川の上に張ったワイヤーロープで猿がツルを伝って進む姿に似ていることから野猿と呼ばれています。定員1名とありますが、体重制限はないのでしょうか。。。 ワイヤーロープは意外と長いので、対岸まで辿り着くのはかなりの腕力が必要かと思われます。 現在は観光用に復元されていますが、かつて、橋が無い集落では遊具ではなく生活に欠かせない交通手段でした。 県道735号を上湯川に沿って西へ進みます。まっすぐ行けば県境を越え和歌山県龍神村に出る道路ですが、人家も無い寂しい道程が続きます。しばらく走っていくと谷へ下りる脇道があり、振り返ったところ、白い校舎が見えました。ガードレールに学校の案内板もありました。 山の谷間にひっそりと佇む鉄筋校舎です。 校舎の近くまで下りてきました。。 往時どれくらい児童がいたのか分かりませんが、目の前の校舎はとても大きく見えます。2棟が繋がっていて迫力があります。 正門の表札は意外と地味でした。 玄関には、卒業生の手造りの表札が掛っています。2006年(平成18年)の製作です。卒業生は2名だったようです。 前庭の池にユーモラスな小便小僧が立っていますが、顔はオジさんのように見えますね。。 奥の校庭から見上げた校舎は、真新しい建物に見えました。 一足早い紅葉に包まれる校庭には、誰にも遊ばれなくなった遊具が並んでいました。 沿道に戻ると小さなバス停がありました。このような山奥で果たして利用客は何人いるのでしょうか。。 待合所の壁には、児童の手作りの案内板が掛っていました。地元の方言で歓迎されると温もりを感じますね。1991年(平成3年)の卒業記念作品です。 西川第二小学校(2017年閉校)十津川第二小学校への統合に伴い閉校となりましたが、山深い隘路をスクールバスで通学することは大変と思います。全校児童は1991年に18名、閉校時には6名に減少、過疎少子化の流れは止められなかったようです。地域の灯である学校がまた一つ消えていきました。。 県道735号から国道425号に戻り熊野川の支流の西川に沿って北上していきます。 明瞭な表札です。 石垣の高台に建つ長細い校舎です。 平谷小学校のように、外壁にワイヤーが各所に張ってあり、簡易な造りの体育館ですが、外壁には紀伊山地を背景に大空を悠然と舞う鷲や河原に佇むカワセミが上手に描かれています。 校庭から撮った体育館 体育館の入口にサッカーボールや運動用具が整列していました。 校庭の片隅に立つトーテムポール 校舎から見た校庭 西川第一小学校(重里地区、2017年閉校)重里地区に建つ校舎は、旧西川中学校(2012年4月閉校)の校舎でしたが、2012年(平成24年)9月1日に永井地区の旧校舎から移転し補強改修して使用していたものです。さきほどの体育館の壁画は、往時の中学校の卒業生が描いたものだったのですね。(小学生にしては上手すぎると思いました。。)まだ新しい校舎ですが、十津川村立第二小学校への統合に伴い閉校となってしまいました。閉校時の全校児童は15名でした。 隣接する永井地区に旧校舎が残っています。 3階建ての鉄筋校舎は、手入れされずに伸びた樹木に覆われていました。 正面玄関に掛かる木板の表札 中央は青鈍色の落ち着いた色調のタイル壁です。中段に校章が額縁のようなフレームに収められています。十津川村特有の「菱十」ですが、剥げた赤字は「西」でしょう。。 右手の入口にも表札が掛っていました。 ブロック塀の投的板キャッチャーミットは空洞になっていましたが、投げたボールを回収するのが面倒だったのでは、と気になります。 運動用具の倉庫にも壁画が描かれています。2007年(平成19年)度の卒業制作です。野球の壁画が多く見られますが、みんな野球が好きだったのでしょうね。。 野球の得点板は地に落ちて曲がっていました。 雑草に占領された百葉箱 アスレチック遊具 西川第一小学校(永井地区、2012年新校舎へ移転)重里地区の校舎に比べるとやはり老朽化しておりますが、歴史の重みを感じる重厚な校舎です。1964年開校から半世紀も経たないうちに移転したのは耐震問題があったのでしょうか。。1991年度(平成3年)の全校児童は32名でした。 国道425号を引き続き西へ走り、小山手地区に入ります。沿道の空地に石碑らしきものがポツンと立っています。 小学校跡を示す石碑です。 裏面には、1875年(明治8年)創立、1969年(昭和44年)廃校とあります。 敷地内にある建物は、こじんまりとした平屋の建物だけです。校舎を改修したのか、解体後に新築されたものか詳細は不明です。校庭はゲートボール場となっていました。 建物は、地区の公民館となっています。小山手小学校(1964年廃校)十津川村から和歌山県境に向かう途中の集落にありますが、秘境と言える場所です。公民館が元校舎であったのか尋ねたかったのですが、周りに人の気配も無く止む無く後にしました。 小山手の隣の集落が小坪瀬です。 バス停近くの脇道を上がる途中で、広場に茶色い倉庫のような建物が見えました。 桜の木の下に小さな石碑が立っています。 小学校跡の石碑です。中学校の分校もあったようです。(第六中学校小坪瀬分校) 裏面の沿革をみると、1875年(明治8年)創立、1951年(昭和26年)中学校併設、1964年(昭和39年)西川中学校へ統合により廃校1970年(昭和45年)西川第一小学校へ統合により廃校ということは、長い小学校の歴史の中で、中学校が併存していたのは僅か13年間だったのですね。 こちらも改修されたものか、解体後新築されたものか定かではありません。。 手書きの表札は、「大字小坪瀬公民館」と記されています。 校庭は木が生い茂り小さな公園のようでした。 小坪瀬小学校(1970年廃校)秘境感漂う国道425号沿線の集落の中では、小坪瀬は比較的大きな集落ですが、限界集落であることは変わりません。隣の迫西川(せいにしがわ)集落を越えれば和歌山県です。なかなか簡単に行けませんが、桜の咲く頃に再訪できればと思います。