ルイスフロイス 日本史 本


ルイス・フロイスは1532年、ポルトガルのリスボンに生まれました。16歳でイエズス会に入会し、インドのゴアで養成を受けます。そして1563年、31歳のとき日本に渡り布教活動を開始しました。当時、日本は戦国の世です。彼の布教活動も日本の情勢に左右されました。九州に上陸し日本語を学んだ後、京都で布教活動を行いますが、保護者だった将軍足利義輝が殺害されるとその身を追われ、堺に避難します。1569年に織田信長と対面し保護を受けるようになってから、京都に戻り多くの信徒を得ました。その後1583年に、宣教の第一線を退き、日本でのイエズス会の活動の記録を残すことを命じられ、熱心に取り組みます。この記録がのちに『日本史』とよばれるものとなりました。西洋人から見た戦国日本に関する記述は、重要な研究資料となっています。1586年には豊臣秀吉と会い歓待を受けましたが、翌年に秀吉がバテレン追放令を出したので畿内を去り、長崎へ落ち着きます。そして1597年、65歳のとき、長崎にて息を引き取りました。人生の半分を日本で過ごし、激動の時代の目撃者となったフロイス。とても筆まめだった彼の報告書は、キリシタンの布教活動を知るための貴重な史料であることはもちろん、第三者の立場から当時の日本の政治経済状態、文化や思想、風俗が具体的に記された、得難い日本史研究資料となっています。彼は9歳で宮廷につとめ、16歳でイエズス会員としてインドのゴアに向かいました。早くから才能が認められ、30歳ごろにはインド管区長秘書になります。1559年の名簿による人物評価は、あらゆる文筆の仕事に才あり、判断力良、語彙力豊かで優れた説教師となりうる、というものでした。1563年に長崎の横瀬浦についたフロイスですが、その1年後には横瀬浦が焼き払われたため、度島へ向かいます。そこで彼はマラリアを発病し、療養しながら暮らしました。この間、熱の発作がない時は日本語を習ったり、日本語の文法書や辞書の編纂もし始めたりと、意欲的に活動しています。フロイスと信長が初めて言葉を交わしたのは、1569年、二条城の普請現場でした。現場作業をしていた信長と2時間にわたり話しています。その時信長は、もし日本でキリストの教えが広まらなかったらインドへ帰るのかと尋ねました。これに対しフロイスは、ただ1人の信者しかいなくても、いずれかの司祭がその者の世話のために生涯この地に残るだろうと答え、信長に気に入られたのです。その後彼は宣教師のなかでは最も多く、18回も信長と会っています。彼は信長立ち合いのもと、日蓮宗の僧である朝山日乗と、異なる宗派間の論争である宗論を行っています。日乗は一貫して宣教師排斥を訴えてきた僧でした。論争は白熱し、霊魂についての話になりました。フロイスが永遠不滅の霊魂の存在を説くと、日乗はそれほど霊魂が存在するというならここで見せてもらいたいと、フロイスとともに参加していたロレンソの首を斬ろうとします。これに対し信長がすぐに立ち上がり、日乗を取り押さえて宗論は終了しました。フロイスはイエズス会側の勝利と記録していますが、その後、日乗の反キリスト教の勢いは強まっていて、議論は平行線だったのではないかという見方もあります。バテレン追放令を出すなどキリシタンを追い詰めた秀吉は、フロイスらと対立関係にありましたが、ときには冗談を言い合う仲でもあったようです。あるとき秀吉が「予に多くの側室を持つのを許すなら、キリシタンになろう」と言ったのに対し、フロイスが「殿下そうなさいませ。殿下1人が地獄に行っても、日本人全部が助かりますから」と答えたのを聞いて、大笑いしたという記録が残っています。 1586年、堺と都周辺にかけて桁外れに大きい地震があったと彼は記しています。近江の国では大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、若狭の国では海が荒れ立ち、大波が町に襲いかかって痕跡もなく破壊してしまったということです。これは後に言う天正地震であるといわれています。彼が10年弱かけて執筆した記録を上司であるヴァリニャーノにみせたところ、300章、2000枚以上という膨大な量を非難されました。しかも世俗から距離を置くというイエズス会の規則を破り、日本の戦争や政治、文化に至るまで詳細に書きすぎていたのです。ヴァリニャーノは書き直しを命じますが、彼は細部に至るまでを描くことが日本の理解につながり布教のためになると拒否します。その結果、『日本史』はヨーロッパへ送られず、マカオの聖ポール天主堂の書庫に放置同然に保管されることとなりました。フロイスの記録を現代語訳した完訳本です。全12巻からなる大作で、布教の過程で起きたでき事や出会った人々などをとても具体的に描いています。フロイスが見た日本の様子がまざまざと浮かんでくる貴重なシリーズです。信長、秀吉などおなじみの人物も登場します。ヨーロッパ、キリスト教的主観で書かれている部分もありますが、それも踏まえて、ポルトガル出身のキリシタンが語る日本という、学校で学ぶ日本史とは違う角度で歴史を楽しめる名著です。「われわれの子供はその立居振舞に落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で、全く賞賛に値する。」(『ヨーロッパ文化と日本文化』より引用)ヨーロッパと日本の風俗の違いが細かく描かれています。風貌や衣服、食事と飲酒の仕方、宗教の信仰に関することなど、章ごとに非常に細かく記された比較文化報告書です。「ヨーロッパ(われわれ)は~で、日本は~だ」とひとつひとつが短い文章で読みやすいつくりになっています。馬に乗るときどちらの足から乗るかなど、かなり詳細なところまで観察していて、フロイスの能力の高さはもちろん、当時彼が日本に抱いた新鮮な驚きを感じることができます。『完訳フロイス日本史』から、主な人物論や政治論、文化風俗を中心に抜き出し、著者の解説付きで書かれたダイジェスト版です。『完訳フロイス日本史』を手掛けた筆者が自ら解説を加えながら、フロイスが見た信長や秀吉をはじめとする当時の人々の様子が描かれています。読みやすくまとめられているので、まず『日本史』のエキスを知りたいという方におすすめです。全12巻に取り組む前の準備運動にもなります。フロイスが日本に来て長崎で亡くなるまでのあいだ、信長や秀吉をはじめ、ときの権力者たちと交わりながら布教活動をする様子を漫画で描いています。そもそもルイス・フロイスって何をした人?という方、まずはこの1冊がおすすめです。布教の記録はもちろん、当時の日本の大名たちとのエピソードも盛り込まれていて、読みやすいなかに必要な情報がつまっています。 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。本サイトはリンク報告不要です。スポンサーリンク 完訳フロイス日本史 12 - ルイス・フロイス/著 松田毅一/訳 川崎桃太/訳 - 本の購入はオンライン書店e-honでどうぞ。 書店受取なら、完全送料無料で、カード番号の入力も不要! フロイスによる『日本史』における信長評. ルイス・フロイス(葡: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ] 、1532年 - 1597年 7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック 司祭、宣教師。 イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。 戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。

�������Җ��Ō��������{Copyright © TOHAN CORPORATION01000000000000307735674-12-203591-0����t���C�X���{�j�@�P�Q���C�X�E�t���C�X�^���@���c�B��^��@��蓍���^���������_�V��0https://www1.e-hon.ne.jp/images/syoseki/ac/67/30773567.jpg/store/common/material/images/com_ic010.gifBK 紙の本. 完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫) ルイス フロイス , 松田 毅一 他 | 2000/1/1 5つ星のうち3.9 19

ルイス・フロイス『日本史』 ルイス・フロイスはポルトガルのカトリック司祭で、イエズス会宣教師として日本で布教活動をしていた人物です。秀吉のバテレン追放令後も日本に滞在していてずっと執筆活動をしていました。 1569年(永禄十二年)4月8日は、織田信長がルイス・フロイスに京都居住を認めた日です。 フロイスは『信長公記』と並んで検証される一次史料『日本史』の著者として有名な人ですね。 今回はこの人の生涯とともに『日本史』の中身も見ていきましょう。